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◆リオ・グラーナ(8)


夜も遅い。
戦場帰りで疲労も大きかったため、彼の身が確保できた安心からそのまま帰ろうとしたサフィンは店を一歩出たところで追ってきたシンに呼び止められた。

「おい、本気か?」
「何を今更。むろん本気だ」
「……テメエ馬鹿だ。俺の金は金貨を何枚も払うほど残ってなかったのに。馬鹿を見てること気づいてるか?」

そうなのか、とサフィンは思った。けれど特に何も思わなかった。店主に渡した金は手元にあった金を握ってきただけだ。エリート職である近衛騎士についているのは伊達ではない。危険職でもある分、給金は高いのだ。
サフィンは自分の金のことよりシンの表情のことが気になった。今にも泣き出しそうな顔をしている。もしかして迷惑だったのだろうか。

「……嫌だったか?」

そう言われても諦める気はなかった。引き取ると決めた相手だ。ちゃんと大切にするつもりだった。けれど迷惑な思いだったのであれば、心が痛む。

「チャン家の旦那にはキツイ奥さんがいてな。行ったら苦労してたと思うぞ。旦那さんは気の強い奥さんに頭が上がらないんだ。どういうつもりでお前を引き取る気になったのか判らないが、俺の家の方が絶対いい。皆、俺の相手を待ってくれてるんだ」

自分の方に少しでも来る気になってほしいと思って言うとシンは首を横に振った。

「そうじゃねえ、行きたくねーわけじゃねえ………この馬鹿っ!!何で、何でもっと早く言わなかった!!俺が一体どんな想いでっ…待ってたと思ってるっ!!」
「え?」

サフィンは初めて相手が泣いているのを目にした。性行為以外で涙を見せることがなかった相手が泣いている。ボロボロに泣いている。戦場ではどんな敵にさえ怯むことのない歴戦の戦士であるサフィンだったが、泣きじゃくるただ一人の相手にどうすることもできず、狼狽えた。

「……俺はっ…俺は、お前と一緒に、なりたかったんだよっ……死ぬかもって…闘い激しくて…怖くて…」

支離滅裂な言葉に困惑しつつもサフィンはシンが自分の元へ来たいと思ってくれていたのだということは理解した。

「俺はちゃんと帰ってきた」
「……っ…」
「ちゃんとシンを身請けする。だから明日まで待っててくれ」

頷くシンにサフィンは安堵した。何とか通じたらしい。
シンを心配してか、店内から顔を覗かせている従業員の姿がある。サフィンはシンの背を押し、その相手にシンを預けた。

「すまない。頼む」

チップを握らせるとその相手は心得たように笑顔で頷き、シンを優しく引き取った。
まぁ、なんて顔。そんな顔を大切なお客様に見せちゃ駄目じゃない、と甘くしかる声が聞こえてくる。
そんな声を聞きつつ、サフィンは帰路についた。急に闘いから戻った事による疲労がどっと体に出てきたが、気持ちは晴れやかだった。



翌日、戦後処理の為、花街へ出向けぬサフィンの代わりに店へ出向いたのはサフィンの父であった。
最初はサフィンの兄が出向こうとしていたのだが、店の名を聞いたサフィンの父が名乗りをあげたのだ。

「なんだサフィンのヤツ、リオ・グラーナの娼婦を買ったのか。あそこの店主は俺の幼なじみだ。任せておけ」

そうして出向いたサフィンの父は幼なじみの店主にサフィンに脅されたと聞かされ、笑った。

「そりゃお前が質の悪いことしたんじゃねーか?あの子はぁ、俺の子の中では一番生真面目でなぁ、真面目すぎて商売向きじゃなくて、騎士になっちまったんだ」
「まさかあの騎士様がお前の子とは思わなかった。立派な息子を持って幸せもんだな、お前は」

そんなことを語り合い、サフィンの父は肩をすくめた。

「んな歳の娼婦じゃ金額も大したことぁねえだろ?前金でお釣りがくらぁ」
「ちっ、せっかく儲けれると思ったのによぉ。おお、さっさと連れてけ」

シンは他の娼婦らと別れを惜しんでいるところだった。店主に呼ばれて小さな荷物を抱えて駆け寄る。

「サフィンは独立するって言ってるが、まだ行き先が決まってなくてな。まずは我が家に来るといい。なぁに賑やかだから、退屈だけはしないで済むぞ」

少し不安げな顔を見せているシンにそう告げ、サフィンの父は店主に別れを告げると店を出た。



シンは西の大通りに面した大きな店がサフィンの住まう実家だと知り、驚いた。

(あいつ騎士にならなくても俺を買い取れたんじゃねえか?)

立地条件のいい場所に大きな店。出入りする客の数も対応する従業員の数も多い。
生まれも育ちもお坊ちゃんだったんだなと思い、シンは妙に納得した。サフィンのあの真面目さは育ちの良さからくるものだったらしい。

「あんたがサフィンの嫁さんかい!よろしくね!」
「部屋は東の奥ね!悪いけど、ララちゃん、サフィンの嫁さんを案内しとくれ」
「うちは見ての通り、忙しくてなぁ。悪いが明日から早速手伝いをしてもらうと思うが、よろしくな!」

人が多い分、新たに人が増えても気にしないのか、皆があっけらかんとしている。
元男娼ということで一体どんな扱いを受けるのだろうと気がかりだったシンは安堵した。特別扱いもなく、仕事も与えられるということがここでの居場所が出来た気がして、かえって安心できた。

「サフィンはずっと独身だったからねー、いつ嫁さん連れてきてくれるんだろと心配してたんだよ」
「真面目すぎて、商売も下手だしなぁ。お客様にお世辞の一つも言えないとくる」

立派な近衛騎士も家族には扱き下ろされっぱなしだ。それが妙に暖かみがあり、笑みがこぼれる。

「ところでサフィンの嫁さん。あんた、力仕事は得意かい?」
「いや、あいにく…」
「そうだろうね、男娼じゃね。それじゃ反物の仕分けなんかを手伝ってもらおうかね。ああ気にすることぁないよ。うちじゃ力仕事以外の仕事も山ほどあるからね、問題ないよ」

その日、サフィンは戻ってこなかった。仕事が大変らしい。
サフィンと再会できたのはそれから二日後の夜だった。