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◆邪神ゲイエルウッドの贄(7)


スティールは小さくため息をついた。
無事に仕事が終わり、後は帰宅するだけだったというのに今夜の相手ラーディンに振られてしまったのだ。ラーディンは急病人の代理で夜勤することになったらしい。仕事のことだからどうしようもない。ラーディンに非があるわけでもない。
寂しく帰宅しようとしたスティールは偶然、第一軍の建物の玄関ホールでカイザードに会った。カイザードは手に書類を持っている。今から隊に戻るようだ。

「先輩、お疲れ様です」
「あぁ、お疲れ。…スティール、今から帰るのか?」

スティールがバッグも持った帰宅スタイルだったので気づいたのだろう。

「はい、ラーディンと手袋を買いに行く予定だったんですけどフラれちゃって…」
「待ってろ。数分で戻る」
「え?」
「俺が付き合ってやる。俺も新しい革手袋が欲しかったんだ」
「あ、はい…」

騎士にとって手袋は必需品だ。正装用の白い手袋や戦闘時に使う滑らない革手袋など、いろんな場で使用するため、一種の消耗品に近い。
剣技の練習をよく行うカイザードだ。手袋の消費も早いのだろうとスティールは疑問に思わなかった。


カイザードは浮かれるような気持ちだった。
スティールと別れてどれぐらい経つだろうか。その間、一度として二人きりの甘い時間は過ごしていない。それどころかろくに会話も交わしていない。
隊が違う為に仕事で会うことすら殆どなく、すれ違うときに挨拶したり、遠くから見たり、いつもその程度だ。
ただの買い物だ。しかし、ただそれだけでもカイザードには嬉しかった。スティールと二人きりで過ごせるのだ。
急いで書類を提出して仕事を終え、隊の執務室にいたラグディスに事情を話し、よかったなと言葉を貰い、カイザードはスティールが待つ玄関ホールへ急いだ。
金はある。口実である手袋を買う金も。

(泊まる金も何とかある)

そこまで考えてカイザードは軽く頬を染めた。そこまで持ち込めるだろうか。持ち込めたらいい。望めないだろうか。

(触りてえな…)

飢えてるな。
そう思い、カイザードは苦笑した。

カイザードが戻ったとき、スティールは通りかかったフェルナンと鉢合わせていた。

「お疲れ様です、フェルナン」
「お疲れ。おや、ラーディンは?」
「急病者が出たので夜勤になったそうです」
「ふぅん、じゃあ私と食事でもどうだい?」

会話を漏れ聞いたカイザードはギクリとして足を止めた。
スティールがフェルナンを選んでしまえば買い物は出来なくなる。
スティールとフェルナンは付き合っている。カイザードのように別れたわけではない。

(俺よりもフェルナンを選ぶよな)

断りの言葉を覚悟したカイザードの前でスティールは首を横に振った。

「すみません、フェルナン。俺はカイザードと先約があるんです。手袋を買いに行く約束をしましたので。また次にでもご一緒してください」
「先約?判った。じゃあまたの機会に」

約束を重視するスティールの断りはフェルナンに不快感を与えなかったらしい。
あっさりと納得して去っていくフェルナンを見送り、スティールはカイザードを振り返った。

「先輩?」
「あ、あぁ、待たせたな」
「大丈夫です、それほど待ってませんよ。では行きましょうか」
「あぁ」

買い物はすぐに終わった。
近衛軍本営の近くには騎士向けの店が多くある。革手袋は騎士にとって一般的な品なので豊富に取り扱われている。欲しいサイズや質のものもすぐに見つかった。

(もうちょっと長くいたい…)

カイザードが食事に誘うとスティールはあっさり承諾した。
カイザードは美味そうな店を探すという口実で少し長めに歩いた。
スティールは特に疑問に思わなかったのか素直についてくる。この辺りは以前と同じ、先輩に従順な後輩らしい態度だ。

(もうちょっと歩けば、裏の界隈に近くなる…そうすれば…)

あまり健全とは言えぬその通りはいわゆる連れ込み宿などが多い通りだ。酷く治安が悪いというわけではなく、一般的な人々向けの通りで、夜の商売としては健全な部類に入る。
あまりその手のことに詳しくないカイザードが唯一知る夜の通りなのだ。

(もうちょっとだけ…もうちょっとこいつと一緒にいたい…)
「先輩、これ以上行くとあまり食べ物の店はなくなりますよ」

その台詞でカイザードはスティールがこの道を熟知していることに気づいた。
元々この辺りは近衛第一軍からそれほど遠くない場所だ。そして人付き合いの多くないカイザードと違い、スティールは友人知人が多い。彼らと食べたり飲んだりすることも多く、意外と社交的なのだ。

この店にしましょうとスティールが選んだ店はごく一般的な飲み屋だった。
内部は意外と広く、しかし少し上品な雰囲気で静かに飲めそうだった。宴会などには向いていないだろう。しかし二人で過ごすのには悪くない店だ。

(いい店を知っているな、スティールのやつ…)

適当につまむものとワインを注文しつつ、カイザードはスティールの雰囲気が違うことに気づいた。
いつもなら飲み交わしているうちに、それとなく甘い雰囲気になるのだ。今日はそれがない。スティールにそういう雰囲気がないのだ。完全に先輩と後輩の時の雰囲気で、甘さが全くない。その気がないことが判る。
そう気づけば、甘く火照った心に冷水を差されたような気分になった。
スティールと二人ということで甘い時間を期待していた自分の愚かさに気づいたのだ。
もう別れた後だというのに、そういうことになるわけがない。その事を失念していた自分の愚かさに今更ながら気づいて、呪わしく思った。
判っていたのだ。判っていたのにスティールを目の前にすると、無意識に期待してしまう己がいる。

会計は以前通りに等分で払い、店を出ると少し遅れてスティールが出てきた。

「今日はお付き合いありがとうございました。先輩、これをどうぞ」

スティールがカイザードの手に落としてきたのは手のひらサイズの小瓶だった。

「なんだこれ?」
「さっきの店のカウンターに幾つか並べておいてあったんですよ。売り物かなぁと思って聞いてみたらそうだったんで買ってみました。お酒ですよ」
「ちっせえな」
「ははは、でもかなり強いらしいです。割って飲むといいらしいんで、小さいけど二杯ぐらいにはなりそうですね」

思わぬ贈り物に顔が綻ぶ。他愛のない品だがこんなちょっとしたやりとりも最近は全くなかっただけにカイザードには嬉しく感じられた。
礼を告げるとスティールは屈託無く笑った。
先輩と後輩でもこうして楽しい雰囲気でいられる。そのことが嬉しく、そして少しつらい。スティールと心の差を感じてしまうのだ。
それでもスティールがくれた小瓶の酒はしばらくカイザードの心の隙間を埋めてくれた。