翌日、ようやく雨は止んだ。
ニオルの同僚たちは近隣の建物に人が残っていないか確認しに行ったりして、建物と近くを行き来している。
まだ水は引かないため、避難してきた近隣住民もまた建物に残っている。
そんな中、次期領主のコウも建物に残っていた。院長テーバが使う部屋の一角を借りて、部下からの報告を聞きつつ、側にはサヴァを置いている。
サヴァは居心地悪そうにしているが、コウがしっかり手を握っているので逃れられないでいるのだ。
そんなサヴァが担当する患者は数名。下っ端のサヴァが担当するだけあって、一人でも問題のないレベルの患者がほとんどだが、その全員が文句を言えないでいる。さすがにコウが相手では苦情を告げられるはずもない。
そんな中、サヴァは自分が担当する老女マイヤが物言いたげな顔で小部屋の入り口付近に顔を覗かせていることに気付いた。
「おい、ばーさん、リムリアのことか!?」
サヴァが声を張り上げて問うと、老女は慌てた様子で叫んだ。
「アンタったら、相変わらず口の悪いっ!!コウ様に失礼じゃろ!!」
「アンタに言ったんだから失礼にはなってねーよ!!」
「リムリア?ああ、国境沿いの町か」
コウは領内が描かれた精密な地図を取り出した。
一見しただけでは判りづらいほど情報が書き込まれたその地図は、領内の小さな町や村までしっかり描かれている。
コウは部屋の入り口まで歩いていき、小柄な老女と目を合わせた。
「川向こうにあるリムリアの町は橋が流されたため、近隣市町村から孤立はしているが、海軍が船を出して確認してきている。あの町は意外と高地にあるため洪水による大きな被害はでていないという。今のところ無事だ」
「おお、よかった。ありがとうございます、ありがとうございます」
マイヤは安堵した様子で何度も礼を言い、頭を下げた。
「コウ、俺はこのばーさんの担当なんだ。仕事してくるから!」
「あ、あんたっ!アタシのことはいいからコウ様のお世話をしなさいっ!」
「コウは元気だ。病人でも怪我人でもねえし」
「いいからいいから」
小柄な老婆に慌てた様子で押しやられ、サヴァはコウの側から逃げ損ねた。
「……仕事……」
「側にいてくれ」
「コウ……そりゃ俺だってアンタと一緒にいたいけどよ……」
「どうせ今日までだ。明日には帰らねばならない」
そしてサヴァがついていくことはできない。サヴァもついていく気がない。まだコウの元へはいけない。それが判っている。だから『今日まで』なのだ。
「アンタ、なんで俺がいいんだ?」
「さて……それはそなたに会った時から私も不思議で仕方がない部分だ」
部下にも悪趣味だと言われた、とコウは笑う。
サヴァにはよく判らなかったが、コウが笑っている様子を見て安堵した。
コウは滅多に笑わない。いつも無表情でたまに見せる笑みは凄みと迫力ある笑みで冷ややかさがある。暖かみは全くないのだ。
そんな有様だからコウが見せる純粋な笑みがサヴァにはとても嬉しく貴重なものに思える。
コウが見せる笑みが大好きなのだ。
「アンタ、相変わらずだな」
「それはどういう意味だ?」
呆れ気味に言うと笑い雑じりに問われた。
「物好きってことだ」
「そうか」
コウは笑っているので怒ってはいないようだ。
愛しげに見つめられる。その眼差しが嬉しく擽ったい。
自分などを好きだと言ってくれるこの相手がサヴァはとても好きだ。、滅多に言葉にしてはもらえないが、その態度で、その眼差しで好きだと告げてくれる。それをとても幸せだと思う。
「兄上のリド様はお元気か?」
「あぁ、相変わらず元気で、相変わらず忙しく働いている。あれは誰に似たのだろうな」
「え?ご両親じゃないのか?」
「母君も穏やかで物静かな方だし、我が父もリドとは違う性格なんだ」
本当に誰に似たのやらと首をかしげるコウにサヴァは笑った。
次兄のことを我が子のように語るコウがおかしかったのだ。
「落ち着いたら城へ来てくれ」
「無茶を言うなよ、アンタ」
「来ないなら私がくるぞ」
「それは勘弁してくれ。行く、行くから。けど……大丈夫なのか?」
「しかるべき血筋の者と後継者をもうけるのであれば好きにしていいと父上に許可を頂いた」
コウの立場を考えれば後継者を作るのは当然のことであったのでサヴァも不思議には思わず、納得した。
そしてそれほどあっさり許可を出すコウの父親に驚いた。
貴族は愛人を持つのは普通だというが、本当にあっさりしている。そんなことでいいのだろうかと思ってしまう。
思わずそう問うと、コウは苦笑した。
「長兄上のおかげだろうな。よくも悪くも父上は私に個人的な関心があられぬのだ」
貴族らしく醜聞を嫌う一面はあるが、最低限のことさえしていれば何も言われないとコウ。
父親であるミスティア領主アルドーは長男アルディンを溺愛しているのだという。
「ご長男って……何でまた?」
「さぁ……。私が生まれた時からずっとこうだ。おかげで兄上が軍にお入りになられたときは大騒ぎだった。だがおかげで殆ど干渉がなくて助かっている。このような生まれだと、ただでさえ周囲の口出しがうるさいからな」
大貴族ゆえに父親以外からも干渉が多い。
家庭教師や乳母、長じては側近など、口出ししてくる者は数多くいる。
だからこそ、父親からの干渉が殆どないのはありがたいのだ、とコウ。
「ベタベタされるのは好まぬ」
だから寂しさも殆ど感じなかったという。
「俺には結構触ってくるじゃねえか」
今も手を握られっぱなしだ。
そう思いつつサヴァが言うとコウはクスッと笑った。
「そなただから触れている」
状況的にこれ以上触れられないことが残念だと笑まれ、サヴァは顔を赤らめた。
「うっ……今度、な」
「早く来い」
「わ、判ってる…っ」
待っていると甘く囁かれて口づけられる。
サヴァはギュッと相手の手を握りしめたまま、もう片方の腕を背に回した。