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◆銀の城(8)

オリガは自宅謹慎となり、父親に連れられて、己の屋敷へと帰っていった。
リドは助かったが、重傷のため、しばらく床につくことになった。
問題はサヴァの処遇であった。平民のサヴァが貴族の娘と揉めたため、サヴァが無実というわけにはいかなかったのだ。
実質はオリガの逆恨みが原因なのだが、リドが傷を負ったことが事態をややこしくした。大公爵家の次男を侯爵家の娘が刺したとなるとオリガは重罰を免れない。しかも内容が内容だけに醜聞だ。
コウの父親であるミスティア公爵は大貴族らしく、醜聞が表沙汰になることを嫌った。コウが国王の甥であるため、尚更、問題はややこしくなった。
結果、出来るだけ表沙汰にせず、事態を解決させる苦肉の策として、サヴァはミスティア家を離れることになった。


+++


サヴァは医師テーバの運営する療養所へ行くことになった。
サヴァの行き先はいくつか候補があったのだが、サヴァはそのすべてを断り、テーバが誘ってくれた療養所へ働きにいく道を選んだ。
テーバも老齢である。これを機に城勤めを引退し、息子へ引き継ぐという。
弟子にするには歳が大きすぎるが、最後の弟子にはちょうどいいかもしれぬのぉとテーバは言ってくれた。
最後の日、サヴァはコウの部屋で別れを告げた。
ひっそり旅立たねばならないため、コウは外でサヴァを見送ることを許されなかった。
いつも呆れるほどポーカーフェイスのコウは最初からしかめ面だった。
綺麗な顔が台無しだとサヴァは思い、コウにそんな顔をさせられるのは自分だけかもしれないとサヴァは内心おかしく思った。

「そんな顔するなって。俺は悪くねえと思ってるぜ」
「サヴァ……」

どこが悪くないのかとコウは思った。
酷い生活をしていた。生きるか死ぬかの狭間に生きていた。助け出せてようやく自分の手で幸せにしてやれるかと思っていた矢先だった。
どうしてこうなるのかと思う。幼い頃、家を出て行った長兄を見送った時とは違う、大きな喪失感がコウを満たしていた。
己の手ではままならぬ事があるとは知っていた。しかしサヴァを失うことでそれを初めて実感した気がした。
愛する者を守ってやれなかった怒り、そしてサヴァを幸福にしてやれなかった悲しみがどうしようもなく辛かった。

サヴァは初めてコウの涙を目にし、驚いた。
自分のために泣いてくれる者がいるとは思わなかった。それほど酷い生活をしていた。
死んでも食い扶持が減るだけだと喜ばれることはあっても、悲しまれることはないと思っていた。
けれどコウは泣いてくれている。それも自分が去ることを悲しんでくれているのだ。

(ありがとよ……)

言葉にしては涙声になる実感があり、サヴァは心の中で呟いた。
泣くコウは綺麗だった。サヴァは目に焼き付けようと思い、目を逸らさなかった。
自分に残されたものはない。せめてコウの姿だけでも覚えておきたかった。

(俺はアンタに何も出来なかったな…)

泣いてくれ、悲しんでくれる。それほど心動かしてくれる相手に何もできなかったことをサヴァは悲しく思った。
それだけではない、彼の大切な兄を怪我させてしまったのだ。
娼館から救ってくれただけでも返しきれぬ恩があるというのに、その恩を仇で返すことしかできなかった。
せめてその悲しみを取り除きたくて、サヴァは手を伸ばし、コウを抱きしめた。
抱きしめられたことはあっても、自分から抱きしめたのは初めてだった。

「なぁ…本当に悪くないぜ。この俺が医師見習いになれるんだ。ありえねえぐらい良い話だ。本来ならとっくにドブ川に捨てられているはずの俺がだ」

だから幸運なのだとサヴァは言った。

「…正直言って、この城は俺にとって辛かった。暇すぎて辛いって意味判るか?忙しいのは気が紛れるが、暇なのはどうしようもねえんだよ。この広い城で俺は一人だ。アンタはずっと仕事だし、夜しか会えねえ。俺は人形みたいに飾られて愛されているだけだ。それで幸せって奴らもいるかもしれねえ。だが俺には合わねえんだよ」

半分は本音だった。
そして半分は嘘だった。
辛かったのは事実だ。けれど、コウの側にいれるならそれでもいいかもしれないと思っていたことも確かだ。
相反する感情がサヴァの心にはあった。そして今でもある。城を去らねばならない今でも。

サヴァはコウに口づけた。
自分から口づける最初で最後の口づけだった。

「愛してるぜ、コウ。
いつか俺が一人前になって、あんたが当主になって、俺を雇ってくれる気になったら、俺を呼んでくれ。
そうだな、あの薬草園の庭の手入れぐらいはできるようになってるからよ」
「……あぁ…」

返事をするのがやっとのコウにサヴァは自分も泣きながら笑った。

「あんた、情けねえぞ。大貴族の後継がそんな顔でいいのかよ。俺も人のこと言えねえかもしれねえがよ」
「…サヴァ…」
「笑ってくれ。最後の顔は笑い顔を覚えていたい」
「…すま、ない。笑えそうにない……」

お前の頼みなのに…と力なく呟くコウにサヴァはそうかと呟いた。

「じゃあ楽しみにとっておくか」

随分時間が経った。いいかげん、テーバも待ちくたびれているだろう。

「サヴァ!」

投げられたのは小さな布袋だった。
開いてみると銀貨が詰まっていた。

「銀貨なら…いいのだろう?」
「多すぎだ」
「持っておけ」

せめてもの気持ちなのだろう。
それが判っていたのでサヴァは苦笑気味に頷いた。テーバにも世話になるし、いつか使う日がくるかもしれない。そう思った。