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◆フィゼア(11)

「……身請け?俺が?」
「そうだ。あのお客様がお前を引き取るとおっしゃられている。よかったな、サヴァ」
「マジかよ…」

変人だと思っていたがここまで変人だとは思わなかった。そもそも自分など引き取ってどうするつもりだとサヴァは思った。

「よかったわね、川に浮かばずに済んだじゃないの」
「厄介払いができたってもんさ」

仲の悪い娼婦達も今日は普段よりは態度が柔らかい。不仲な相手が店をでていくのでせいせいしているのか、店主の機嫌がいいのが嬉しいのか、恐らくその両方だろうとサヴァは思った。
素直に喜んでくれたのは下働きの老婆だけだった。親身になって喜んでくれたというわけではないが、しみじみとした様子で死なずに済んでよかったねえと言ってくれた。

「下働きにでもするのかもな」
「娼婦を引き取るってのにそんなことぁないと思うがねえ」
「けど俺なんざ相当安いぜ?あの客は金払いいいから俺を買う金なんざ安いもんだろうよ」

何しろ金貨をあっさり前金に出すような客なのだ。間違っちゃいないだろうと思いつつ言うと老婆は昼食に使う野菜を洗いながら笑った。

「そうかねえ。けど死なずに出ていけるんだから運がいいさ」
「だな」

そればかりは確かだとサヴァは頷いた。生きてこの街を出る日が来るとは思わなかった。唐突に街をでれるのだという実感が沸き、サヴァは顔を隠すように俯いた。

(ああ…またかよ)

頬を伝う涙の感触にサヴァは戸惑った。しかし判る。これは幸福の涙だ。負の感情ででる涙ではない。
あまり目がよくない老婆はサヴァの状態に気づかず、本当によかったねえと言いながら野菜を洗っている。

(俺は死にたくなかったのか……)

そんな当たり前のことを忘れてしまうほど、死と隣り合わせで生きてきた。
穀潰しとののしられ、いつ殺されるか判らないような日々を過ごしてきた。
実際、生きてこの町をでていける日がくるとは思ってもいなかった。そんな状況だった。
それが、生きてこの町をでていける。そのことが嬉しい。とても嬉しい。
生きていていいのだ、という生の実感、そして喜びがある。
嬉しいという感情自体、本当に久々に感じるものだった。

(……会いてえ)

初めて彼に会いたいと思った。次はいつ来るのだろう。身請けを決めたのだから、そう先ではないだろう。会いたい。会ってどうしたいのかは判らないが、会いたいと強く思った。

「おい、ババァ。次の野菜持ってきてやるよ」

頬を伝う涙に気づかれぬうちにと思い、サヴァはその場を離れた。
心は晴れやかだった。