文字サイズ

◆フィゼア(9)

この世界で医者は貴重だ。医者を呼ぶというだけで相応の金がいる。
その医者に使用された真っ白な包帯。ただそれだけでも相当な金が使われたことを意味する。傷を負って医者にかかっている男を見たことがあるが、使われていたのは何度も洗い直されたような布きれだった。
それが普通なのだ。医者に怪我を見てもらうということは。薬は高いから、傷を覆う布など、煮沸消毒して幾度も使い回すような布きれが一般的なのだ。
おろされたばかりのような真っ白な布がサヴァの腕にまかれているなど間違っているのだ。



「落ち着け。そなたの申すことは支離滅裂でさっぱり判らぬ。何を泣いている」
常に冷静な客の、やはり冷静な言葉にサヴァは動きを止めた。
泣いている?誰が?何が?何のことなのか。
ぽたりと床に落ちた。
サヴァは驚いて目元を拭った。次々に溢れてくる涙にサヴァは驚いた。

「……なんだ……何で……一体」

性的な意味や痛み以外で泣いたことなどなかった。
昔からろくな目にあっていないが、涙など枯れ果てたと思っていた。それなのにまるで目が壊れたかのように次々に涙がこぼれ落ちてくる。サヴァは拭っても拭ってもこぼれ落ちる涙に途方に暮れた。

「目を擦るな赤くなる。……包帯で拭うな。手当をした意味がない」
「るせえ」

差し出されたのは使うのを躊躇わずにいられぬほど上質のハンカチだった。縁取られた刺繍の銀糸だけで質の良さがかいま見える。

「いらねえ、そんなもん」

高すぎて使う気になれない。

「よいから使え。見るに堪えん」
「あんた、何げにひでえよな」

ヤケになって受け取って顔を拭うと背を優しく抱きしめられた。力が籠もっていないのはこちらの傷を気遣ってのことだろう。サヴァは再び理由の分からぬ涙がこみ上げてきて、唇をかんだ。胸が痛い。心音がちっとも休まらない。

「私はそなたにひどくした覚えはない」
「そういう意味じゃねえ」
「ふむ……すると、最近来なかったことか?仕事が忙しかった」
「だからそういう意味じゃねえって言ってんだろ…」

反論しつつも、『最近来なかった理由』を知り、心の中の何かがスッと消えていくのを感じた。どこかで気になっていたのだろう。

「今度は早めに来よう」
「…るせえ。俺は別に催促してるわけじゃねえよ、むしろ放っとけ」
「そなたは本当に無礼だ。口も態度も悪く、悪態ばかりついている」
「あぁ?説教か?」

軽く睨む。しかし間近で見た相手の表情は優しかった。浮かんだ笑みには甘さがある。今までにそんな表情を向けられたことは一度もないサヴァは内心驚いた。軽く鼓動が跳ね上がる。

「髪もぼさぼさ。肌も荒れている。服もすり切れる寸前のようだ」
「るせえっつってんだろ」

いわれずとも判っている。肌が荒れるのはろくなものが食べれないせいだ。特に成長期に満足に食べれなかったせいで背もさほど伸びなかった。当然ながら肉もつかないので抱き心地は悪いだろう。
髪も適当に切って、適当に手ぐしで梳いている。寝癖を直すぐらいしかしていないので、身なりに気を遣っている他の娼婦たちに比べたら、ぼさぼさ頭に見えるだろう。
色も悪い。真っ白なので爺のようだと口の悪い同僚達に言われたことがある。
自覚済みなのだ。だから何だと相手を睨めば、相手は小さく肩を奮わせて笑っていた。

「全く……本当にどうしようもないと思うのに何故だろうな。私はそなたが好きだ」

笑みながら告げられた言葉にサヴァは驚いた。
どんな形であれ、生まれて初めて向けられた好意だった。

「…あ……なんだ?」

途端に一度は止まった涙が溢れてきてサヴァは途方にくれた。一体どうしたというのか。あの手当をしてくれた医者は傷薬に妙なものを使ったのではなかろうか。でなければこの涙の理由が分からない。

「泣いておけ。今は意味が分からずともいい。それでいい」
「あぁ?なんだ、それ…」
「さて……言葉にされぬ何かがあるのだろう」

だから泣いておけと告げる相手の背に触れる暖かみが妙に痛い。心臓にずきずきと響き渡る。
サヴァがいつしか眠り込んでしまうまでその背の暖かみは続いた。