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◆霧の記憶(2)


娼婦街はいつも薄暗く、安い酒や香水の匂いで満ちている。
それらはいつもロイを安心させてくれる。
それなりの家柄に生まれたロイだが、実家は少しも落ち着ける場所ではなかった。いつも冷ややかな両親の視線や無機質な使用人の眼差しに晒されていた。
しかし、娼婦街は違う。嘘偽りであれ、温かな体温と言葉に満たされる。
作り物の笑顔であれ、自分に向けられる笑顔であれば文句はない。
裏のある言葉であれ、とげが含まれた言葉でないのなら、ただ甘いばかりだ。

「可愛い坊やね」

年下であるため、そんな扱いだが、可愛がられるのは悪くない。
士官学校などどうでもいい。居場所がないからいるだけだ。ただ自由になりたいと思う。
騎士であれ、傭兵であれ、いずれ戦場で死ぬ身なのだ。
ディンガル騎士団は死亡率が高い。ロイのようなはみ出し者はすぐに死ぬだろう。
それが早いか遅いかの違いだ。

それなりに満足した時間を過ごして寮に戻ったロイは、そこにオルスを見つけて驚いた。

「お前なんで!」
「お前を待っていたんだが…」
「今までか!?」

抜け出して数時間以上が経っている。それまで彼は外で待っていたのだろうか。
思いもかけぬ行動にロイは驚いた。

「そうだが?」
「馬鹿かお前は!風邪を引くぞ、一体何時間待っていたんだ!!」

さぁと首をかしげるオルスはいつもどおりの笑顔だ。
ロイは無性に腹が立った。
何故彼はこんな勝手なことをするのか。感じる必要もない罪悪感を感じるではないか。
そもそも彼は何故こう勝手な行動ばかり取るのか。こっちは望んでもいないというのに。

「うっとうしいんだよ!!俺を待ったりするな、迷惑だ!!」
「ふむ」

怒られたというのにオルスは笑みを見せた。
怪訝に思ったのも一瞬。ロイは次の言葉に驚いた。

「じゃあ、次から俺を連れていってくれるか?」
「行くか、アホ!!」

駄目だ、こいつ理解できねえ。
心底そう思ったロイであった。

++++++++++

ディンガルの士官学校では、試験結果は上位20名だけが張り出される。
ロイには無関係だが、オルスはいつも名前が張り出される側だ。

「やったー、オルス先輩、成績あがりました〜」
「俺もです!」
「よくやったな」

群がる後輩の頭を撫でてやっているオルスは、相変わらずの人気者だ。
そしてその隣で顰め面なのはオルスと同室の男だ。士官学校の寮は二人部屋で、オルスと同室の彼はエルザークという名だ。
オルスと同じぐらい優秀な成績を誇る彼は、別なる後輩の面倒を見ているようだ。手には試験結果らしき紙を持っている。

「ね!成績上がったでしょ!?」
「……上がったか?」
「2点あがりましたよ!」
「2点……!?……お前な。これは到底、満足できる成績じゃねえだろ?しかも、こっちの答案は一桁じゃねえか!俺は一桁の答案なんて初めてみたぞ!?」
「そっちはよく意味が判らなかったッス」
「ハァ……」
「あ、エルザーク先輩、先輩達の学年が張り出されますよ」

各学年の上位ともなれば、並ぶ名は大抵同じ顔ぶれだ。
トップはロイも知る秀才のルイ。完全な文系という顔の彼はいつもトップ争いをしている一人だ。今回は無事トップを取れたからか、誇らしげな顔をしている。
その近くで壁に張り出された名をオルスは静かな笑みを浮かべて眺めている。彼はいつも穏やかな表情をしているので、内心は何を考えているのかよく判らない。
周囲の後輩たちは、すごいですね、と単純にオルスを褒めているようだ。

「お前、どこを間違ったんだ?」

今回二位だったエルザークが問う。
四位だったオルスは首をかしげている。

「さぁ…たぶん、どこか見落としたか…抜けていたか…」
「またそんな理由か!試験時間ぐらい気合い入れて書け!」

そうしているつもりなんだがな、と笑うオルスはロイとは別の意味で試験に興味がなさそうだ。
この二人は実技教科の成績もトップクラスだ。
そういう意味では、学業だけのトップの男より遙かに騎士としての才能がある。

(まぁいい。こいつらが試験結果に気を取られている今がチャンスだ)

最後まで授業を受けるなどという面倒なことをするつもりはない。
そろそろ、進級のための時間数が厳しいという自覚はあったが、そもそも卒業する意志も乏しいロイは全く気にしていなかった。

+++++++++++++

「そろそろ、いいかげんにしておけよ」

エルザークに睨まれたのは、オルスが夜に待つようになってしばらく経ってからのことだった。
彼はオルスの同室だ。当然オルスが夜にどうしているかも知っているのだろう。

「そいつはこっちの台詞だ。あいつウゼエんだよ。俺の尻を追いかけてくるなと言っておけ」

こっちは迷惑しているのだ。
放っておけと言っているのだから、放っておけばいいのだ。
こっちが放校になったところで彼に迷惑がかかるわけではないのだ。

「俺が何故こう言うのか判らないのか?」
「何だと?」
「哀れな奴だな。言っておくが、オルスが止めると思うなよ。あいつはこれぐらいじゃ全く動じないぞ。お前も覚悟して動くんだな」

全く意味が判らない。
オルスもオルスなら、その友人も友人だ。
ロイは舌打ちした。
よく判らぬ事で不快な気分にされるのは、本当に迷惑だった。