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◆学舎の雫(6)


一方、己の執務室にて、カークは非常に不機嫌だった。
ノースがただ一人で行動しているのが気にくわないのである。
むろん、ノースは子供ではないのだ。護衛さえつけてくれればどこで何をしようが構わない。しかし彼の身の安全が確保されていればの話だ。
ノースはカークが認める数少ない上官だ。彼に死なれては非常に困る。
利己的な理由ではあるが、彼なりにノースを大切に思っているカークはどうにかできないかと悩んでいた。しかし、ノースには念入りに釘を刺されてしまった。こういうとき頭の良すぎる上官は面倒だ。頭の良いノースはカークの手を知り尽くしている。手出しできぬ状態なのだ。
おまけにノースはカークの元へ厄介事を持ち込んできた。仕事という名の厄介事だ。

アキューロスの滴。
知る人ぞ知る、という具合に一部の限られた人々に知られているこの薬は麻薬の一種である。
軍でも出回ってはいないが、拷問や自白といった表にでない部分で密かに使用されている。
大の男でも苦痛を訴え、その手の商売の女でさえ泣き叫ぶほどの快楽を与えると言われるこの薬は強力な催淫剤となるのだ。
今回、ノースが持ち込んだ話の薬は『アキューロスの滴』の亜種だった。いわゆる紛い物だが質が悪いことには変わりがない。

(オマケにレンディ麾下のシグルドが持ってきた書類には、学校に麻薬が蔓延っている可能性が書かれていた。放置しておくわけにもいきませんね)

ノースは頭がいい。そんなヤバい物に手を出すとは思えないが、当人が知らないうちに口にしてしまう可能性もある。

「カーク様」

青将軍カークの公舎内にある執務室には彼の側近である赤将軍らが集まっていた。
普段、カークはノースの公舎にいることが多い。
しかし当然ながら彼自身も自分の公舎を持っている。他の青将軍らの公舎と違い、貴族的な装飾の多い建物だ。
通常、公舎は与えられた物を使うのだが、カークは飾りっ気がない公舎を気に入らなかった。そのため王都にあった旧貴族の屋敷を買い取って改築したものを使用している。
そんなカークにノースはあきれ顔だったがきつく咎めることはなかった。カークが自腹を切ったため、そこまでするのならと放置したのである。
そんなカークの公舎は普段、側近の赤将軍らで運営されている。
非常に優秀な彼の側近たちはカークが不在でも何ら問題なく、軍を最良の状態に保っている。

「いかがなさいますか?」

短い黒髪と黒目を持つ実直そうな男マクシリオンが問う。見た目通り、生真面目な性格を持ち、腕も良い、騎士の鏡のような男だ。

「さて。私は調べるよう命じられただけですからね。この薬を撲滅しろと命じられたわけではないのです。恐らくノース様がご自身で動かれるつもりでしょう」

その言葉に顔色を変えたのは赤茶色の艶のある髪と紺色の目の青年ロルフだ。
元は他国の騎士で、捕虜となり、現在はカークの側近である彼は慌てたように首を横に振った。

「何をおっしゃいます。そのような危険なことをお許しされてはノース様の身に何が起きるか判りません!あの方の手足となるために部下である我らがいるというのに!」
「間違ってますよ、ロルフ。貴方は私のものであり、ノース様のものではありません。ですが完全に間違いではありませんね。あの方は実戦向きではありません。あの方は頭さえ使っていただければいい。動くのは他の者でいいのですから」
「は…はい」

カークの言葉にロルフは整った顔をやや赤らめた。

「とりあえずダンケッドにこの件について連絡しておきましょう」
「御意」
「あと、この薬についてですが……ソル」

名を呼ばれて顔を上げたのは、部屋の隅にうずくまるように片膝を抱えて座り込んでいた男だ。やはり彼も他の側近たちと同じく紅いコートを羽織っている。しかし彼のコートはややデザインが違い、体にフィットするタイプで丈が短い。カークが彼に似合うよう、わざとそうデザインしたものを作らせたのだ。
たてがみのように広がった黒髪とぎらぎらと輝く獣のような眼差しを持つ男は、カークと目を合わせて舌打ちした。

「この薬を知っているでしょう?」

カークの念を押すように問われ、ソルは不機嫌そうに顔を逸らせた。
ソルは元々、裏世界である組織の幹部をしていた男だ。当然、裏世界の事情には通じている。

「…知っている」
「ソル、目を逸らせてよいなどと許した覚えはありませんよ」
「……」

舌打ちしつつもカークの命令を無視できぬソルはしぶしぶ目を合わせた。

「そいつぁ…クズシどもが作ったんだろう」
「クズシとは裏世界の薬師のことですね。その者達はどこにいるのです?」
「さぁな…。だがそういう連中はどこにでもいる。裏世界で薬師は貴重だ。だが真っ当な薬師は一握り。薬師と名乗る者のほとんどが薬師の真似事をして金を稼いでいる連中だ。そういう奴らは稼ぎもしれている。恐らくどこかでアキューロスの滴の存在を知り、見よう見まねで作っているんだろうよ」
「なるほど。ですがクズシが作った程度の闇世界の品が表に出てくるほど数が増えているとは思えません。何らかの形でそれなりの規模の組織が関わっていると見るべきですね」

ソルは肯定しなかったが反論もしなかった。彼の意見も同じなのだろう。

「ソル、調べられますね?」

ソルは顔をしかめたが、そういう命令が下されることは予想していたのだろう。
立ち上がると、何度も教え込まれた動きでカークの手を取り、その甲に口づけた。

「御意」