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◆緋〜死の熱を持つもの〜(8)


撤退開始から10時間近くが経った。
その間にアスターはシプリの部隊が追いついてきたという報を受けた。
シプリ部隊の最後尾は追っ手に追いつかれたが、無事撃破したという。
戦場に残された怪我人の救助のために後背を守っていたシプリは、かなりぎりぎりまで残って生存者を回収してくれたという。
アスターは友に感謝しつつ、総指揮を執りながら、サウザプトン国からガルバドス国内まで一気に撤退し、キャンプ地を張った。
サウザプトン国内にいれば危険性が高い。しかし、ガルバドス国内まで戻れば話が違う。
国境を越えることは侵略となる。サウザプトンにガルバドスまで攻め込む気があるかないかによるが、その気がない場合、追ってはこないだろう。サウザプトンは小国だ。たとえ紅竜がいてもガルバドス国とは圧倒的な兵力差がある。勝ち目の低い博打をしようとはしないだろう。

(だがこれでサウザプトンには容易に手を出せなくなった)

紅竜の圧倒的攻撃力。
例えこちらに青竜がいるとしても、あの攻撃力はあまりにも凄まじすぎる。大軍を出したところで勝てる気がしない。
南の小国への進撃は中断せざるを得ないだろう。

(何とか帰って来れたな……)

先頭を慎重派のエドとトマに任せたおかげで迷うことはなかった。一定間隔で用意された目印は、怪我人が多くて遅れがちな後続をしっかりと導いてくれた。いろんな小隊の寄せ集めとなってしまった軍だが、道さえ間違わなければ前方を行く部隊に追いつける。とにかく今回は『全員が迷わないこと』がとても重要だった。
最後尾はシプリが守ってくれた。彼がぎりぎりまで味方を守ってくれた。
信頼する友のおかげで何とか大崩れすることなく戻って来れた。

そして、敗戦から十数時間以上が経った。
大部隊を一瞬にして焼き尽くした熱を食らったのが昨日の午後だ。
それから徹夜で撤退し、キャンプを張ったのが夜明け近くだ。とにかく走って走って走りまくった。
キャンプ地では火を使っている。当然、狼煙が上がっているだろうが、アスターは構わなかった。味方への目印がわりになるし、すでにガルバドス国に入っているからだ。
整然と撤退できたわけではないので、キャンプ地にはバラバラに逃げてきた隊や兵が続々と集まってくる。どの顔にも疲労の色が濃い。
大国ガルバドスは敗戦に慣れていない。
今日見た、信じられないような光景が兵に大きな精神的ダメージを与えていることは間違いなかった。

王都には早馬を走らせている。途中途中の砦や関門で馬を変えながらいけば、かなり早く王都にたどり着くことができるだろう。往きは20日近くかかった行程だが、三分の一以下で行けるに違いない。
アスターは伝令役にレナルドを使った。赤将軍である彼を使うことで事の重要性を強く訴えるためだ。
レナルドは黒将軍のスターリングやギルフォードに顔が利く。そのことも有利に動くだろうと考えてのことだった。

「ホーシャム、先に数時間ほど休め。その後、俺も仮眠をとらせてもらう。夕刻に全将軍を集めて会議を行う予定だ」

アスターは兵が作ってくれた暖かなスープを飲みつつ告げた。
戦場慣れしているがホーシャムは高齢だ。疲労の色が濃い。ホーシャムも己の状態が判っていたのだろう。素直に頷いた。

「うむ、ではお言葉に甘えましょうかの」
「ああ」

ホーシャムを見送り、アスターはため息を吐き、隣にいるザクセンをちらりと見上げた。
光の印を持ち、長寿のザクセンは30年以上もの間、黒将軍の地位にいたという人物だ。軍歴が長い彼はこういった不測の事態に慣れている。今回も冷静に的確なアドバイスをくれた。

「ザクセン、無性に酒が欲しい気分だ」
「今飲んだら確実に悪酔いする。我慢しろ」
「他の青将軍はまだ見つからないか?」
「新たな情報は入ってこねえな。被害の少ない部隊を優先して生存者救出に当たらせてるが芳しくねえ。だが、フォード、アントニオ、インバス、ウィガン、デジレの5将軍は当時の隊の配置からみて絶望的だ。フォードの隣にいたホセが助かったのは奇跡と言っていいだろう」
「……そうか」
「残る将軍どもも無事かどうか……これほど撤退が遅れているところを見ると、望みは薄いだろうな」
「……そうか……」

そこへ、天幕へ入室を問う声が響いた。
入ってきたのはカーラとユーリであった。彼等の副官も一緒である。
二人の赤将軍はアスターの命令で味方の撤退を手伝うため、隊の後方に位置していた。
彼らは最後尾に位置するシプリとマドックの部隊をよく助けてくれたという。アスターは二人の働きに感謝していた。
いつも綺麗に化粧をしているカーラだが、今日はそれどころじゃなかったためだろう。口紅だけを塗り、ほぼ素顔であった。

「アスター、報告するよ。フォード、アントニオ、インバス部隊の撤退をほぼ完了したよ。今のところ、死者が二割、負傷者は六割ってとこだけど、死者はもっと増えるだろうね。それぐらい重傷者が多いんだ。
他部隊の状況はよく判らない、調査中さ。今、生存者や目撃者の証言により当時の部隊配置を調べているところなんだ、のちほど詳細を報告するよ」

カーラの報告にアスターはため息雑じりに頷いた。やはり被害が大きい。死者と負傷者を合わせれば八割になる。とんでもない数字だ。

「判った、ご苦労。夕刻に全将軍を集めて会議を行うからできればそれまでに頼む」
「了解」

続いてユーリが口を開いた。

「黒将軍のお二人とアントニオ、フォード、イバンス、ウィガン、デジレ将軍の生存は絶望的のようです。イード、バーカス様は行方不明。現在、捜索中ですがやはり絶望的ではないかと」

「……そうか」
「あと、イーガム様の救出に成功いたしました。重傷であられますので、指揮は無理であると思われます」
「そうか。俺とホセ、ザクセンも含めて、青将軍は四人しか残らなかったのか…」
「……」
「ご苦労だった。夕刻までゆっくり休め」
「はっ」

アスターは深くため息を吐いた。
ホルグ麾下の将はホセとアスターしか残らなかった。ホルグ麾下の将とは誰とも仲が良いとは言えなかった。しかし、嫌いと言うほどでもなかった。プライドが高く、血気盛んな彼等とは気が合わなかったが、死んでしまえと思ったことなど一度もなかったのだ。
この間まで揃っていた顔ぶれが半数以上消えた。
あの閃光のような強烈な熱で一瞬にしてアスターの前から消えてしまったのだ。

アスターは運が良かったのだ。後方に位置していたおかげで逃れることができた。
あの日、引き当てた後方支援部隊のくじが命運を分けたのだ。

「…ちょっと青の連中を見に行ってくる」
「重傷じゃ会えねえかもしれねえぞ」
「そうだな、だが一応会っておきたい」
「判った」