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◆月〜造られし感情の行方〜(11)


悩みながら書類仕事を続けて迎えた午後。
部屋へやってきたカークは菓子を手にしていた。
傍若無人のカークだが、上司であるノースにだけはそれなりに気遣いを見せる。上質の菓子もその一環であるらしい。
それが判っていたため、簡単な礼を告げて受け取ったノースは、菓子を食べつつカークに問うた。

「…奴隷を奴隷となる前の状態に戻すことができると思うか?」
「それは身分のことですか?」
「いや…」
「無理ですね。調合済みの薬を材料に戻せと仰っているようなものですよ、ノース様」

躊躇いのない即答にノースは小さくため息を吐いた。薄々予想していていたことだったので落胆は少なかった。
自害しろと言えば躊躇いなく行う。そこまで徹底的な調教を施されている奴隷だ。文字通り、奴隷としての教えが魂の随まで叩き込んであるのだ。それを元にというのは無理だろう。判っていながらも一応確認してみたかったのだ。

(我ながら、らしくないことをしているな…)

頭がいいノースはあまり悩むことがない。よほど難解な作戦を実行するときぐらいしか延々と考え続けるということはない。出ない結論はノースに苛立ちを感じさせる。

「飛ばしたらどうです?」

ノースが悩む様子を見かねたのか、カークがそんな提案をしてきた。
いつものように執務室のソファーに陣取った彼は、慣れた様子で紅茶を入れながら言った。

「我が国も領土が増えました。地方業務が増えておりますからね」

ガルバドス国は貴族や領主に大きな戦力を持たせることがない。とにかく国王直属の八将軍に権力が集中しているのだ。そのため、青将軍や赤将軍が地方に出向いて行う仕事が比較的多い。軍の持つ実権が大きいと言われる所以だ。

地方に出向く仕事は必然的に黒将軍の側を離れることになるため、側近以外の青将軍で行われることが多い。黒将軍の側を離れるということは、よき仕事を受け損ねる可能性も含んでいる。そのため青将軍たちにはあまり好かれない仕事なのだ。

「ご褒美を与えて命じればいいんですよ。飴と鞭のさじ加減が奴隷を上手に扱うポイントですよ、ノース様」

そこへダンケッドがやってきた。
彼はカークの紅茶を好んでおり、紅茶を飲むためだけにカークの元を訪れることがある。
害がある行動でもないため、放っているノースであったが、今回の彼はノースに用があったらしい。

「ディルクが倒れた」
「!?」
「疲労と寝不足らしい。医者に雷を落とされ、医務室で休んでいる」

疲労はともかく睡眠不足はノースに原因があるのだろう。
ノースはペンを置き、ゆっくりと立ち上がった。

「医務室へ行く。護衛を頼む」
「「御意」」


++++++++++


時は少し遡る。

「うるさい、黙れ!!とっとと公舎へ戻れ!!」

部下へ怒鳴るだけ怒鳴ってディルクは己に用意されているノースの官舎内の自室へ入った。
八つ当たりだという自覚はある。部下は仕事でやってきただけだ。しかし今日は感情のコントロールができなかった。
せめてこれ以上、当たらずに済むように部屋に籠もっていることにした。
しかし一人になると自然とノースのことを考えてしまう。
おとといの夜。もしかすると一生に一度のチャンスだったかもしれない夜。しかし追い出されるように帰らされた。最後は吐き捨てるような口調だった。どう考えても成功したとは言い難い。その日から一睡もできない。

(ノース様…)

何が悪かったのだろうかと思う。眠れなくてずっと一睡もせずにそう考え続けている。
なんだかんだ言いながらも二度達してくれたから、そう悪くなかったのではと思い、少し調子に乗りすぎたのが悪かったのだろうか。三度目は求めるべきではなかった。
しかしディルクは軍人だ。体力がある。まだまだ欲しくてノースのペースを失念していた。

(ノース様…ノース様……ノース様……)

答えが出ない悩みを考え続けたディルクはいつの間にか意識を失い、倒れていた。


++++++++++


ディルクがノースに会う回数は少ない。ノースが会おうとしないため、ディルクがノースに会う口実を作らない限り、会えないからだ。
医務室で眠っていたディルクは己を呼ぶ名に気付き、慌てて体を起こそうとした。

「ご…ノース、様っ」
「いい。横になっていろ」

主人が来てくれた。ただそれだけで涙がでそうなほど嬉しく、ディルクは横になったまま、ノースを見つめた。倒れたと気付いたときは情けなさに自己嫌悪に陥ったが、主人が見舞いにきてくれたというだけで気持ちが浮き立つ。申し訳なく思うが、うれしさが勝った。

「ディルク、お前に命じたいことがある」

その言葉に浮き立った気持ちが少し沈む。

(仕事を命じるためにいらっしゃったのか…)

「はい、何なりと」

それも当然かと思い、ディルクは答えた。
主人の役に立つのなら。そのための奴隷なのだ。

「お前に地方業務を命じる」
「…え………」

ディルクは地方業務を行ったことがある。しかしすべて自主的に請け負ってきたものであり、祖国である旧タパール関係のものばかりだった。
祖国のためでなければノースの側を離れる仕事など請け負わなかっただろう。ノースの側にいることはディルクの喜びだからだ。

(お側を離れろと…)

突き落とされたような気分で目の前が真っ暗になったディルクにノースは付け加えた。

「この仕事を受けるのであれば褒美を与える」
「…褒美……お金ですか?」
「お前がそれを望むならお金でも構わない」

ノースの側近でいるためには察しの悪いことはしていられない。優秀な部下であるディルクはノースの言葉の含みに気付いた。

(お金以外でもいいのか)

「ノース様、では……ノース様とのお時間を頂いてもいいですか?」
「あぁ。お前がそう望むなら」

縋るような気持ちで告げた希望に肯定の返事が返ってきて、ディルクは安堵した。
側を離れろと命じられた。けれどまだ希望はある。

(本当に私は駄目な奴隷だ…)

主を喜ばせることも出来ず、だからといって離れることも出来ない。部下としてはともかく奴隷としては出来損ない以外の何者でもないだろう。

「ありがとうございます」